電王戦第四局

塚田九段とプエラαの対局でした。
ツイッターやネットをざくっと見渡すと、塚田先生の諦めない執念が劣勢の将棋を持将棋まで持ち込んだことに対する賞賛の声が多いようです。人間賛歌と言いますか。

で僕の感想ですが塚田先生の指し方に「がっかりした」というのが正直な気持ちです。ソフトの弱点である入玉を狙ったのが卑怯?いやそうは思ってません。問題は「局面の最善手を知っていながらその手を指さなかった」という「姿勢」にあります。

将棋の世界では有名な「イメージと読みの勝負観」(略してイメ読み)という著書に、「勝負手を意識的に指すことがあるか?」という質問がありました。この「勝負手」というのは「局面の最善手ではない(悪手かもしれない)が相手が間違いやすいような局面への誘導をする一手」という意味で語られていました。これに対するトッププロの回答は揃って「局面の最善手を指す」と答えていました*1。僕はその回答にプロの矜持を感じて凄く嬉しく思いました。
*1補足と訂正:羽生、佐藤康、渡辺先生はそう言っておられますが、森内、谷川、藤井先生は悪い局面では最善手というものは存在せず、よりよい手(場合によっては一番良い手でなくても負けにくい手)を指すと仰ってます。失礼しました。一方でこの訂正で後の文の趣旨は変わりません。後述で塚田先生が明らかに最善の手でない手を指した局面は若干不利だったかもしれませんが、全然戦える局面だったからです。

話を電王戦に戻します。この日のニコニコ生放送の解説は木村一基八段でした。棋理に明るく明快な解説をされます。しかし木村八段の顔色が明らかに曇り、言葉遣いが荒くなってしまう場面がありました。具体的には木村八段は飛車を取られた手は仕方ないとして、4二の角を世に出す(1五に)手順を解説されていました。しかし塚田九段の指し手は入玉を淡々と進め、角が一生世に出ず取られるだけの手順。見返りは入玉が安全にできるというだけ(角が1五に出ると玉の進路を塞ぐデメリットがある)。このあたりから木村先生は明らかに「怒って」いました。あくまで僕の想像ですがこのあたりの手順はプロとして目を覆ってしまうぐらい酷い手順だったため流石に温厚な木村先生も「情けない」と思ったのではないでしょうか。

更に言いますが木村先生が解説された手順ならいくら塚田先生が衰えたとは言え、見えた手順でしょう。しかし局面の最善手は「敢えて」指さなかった。これってほんとプロって名乗る資格ある?と思うわけです。真吾おじさんというネットでは有名なアマの方がいて短時間将棋でソフト相手に入玉の将棋をされその勝局の棋譜を有料記事で上げておられる方がいます。この棋譜を見るなら真吾おじさんに対局させればいいじゃん。プロを出す必要ってあったの?と心から思いました。

そもそもこの電王戦ではソフト側はアルゴリズムの中で一番最善と自ら判断する手を指すようになってるはずです。プエラが入玉を果たしてから敵陣に歩を垂らして成るという意味のない手を何度か指し、それが観客やコメントから失笑を買ってました、しかしそれはソフトが最善と考えてやってるわけです。一方それを迎え撃つプロは最善手の模索をしない。こんなに対戦相手に敬意の払われない対局が許されていいんでしょうか?

電王戦第三戦の船江五段とツツカナの戦いではツツカナ側の開発者の一丸さんが最新に近いバージョンのソフトを貸与し、一方で船江先生も自分の棋譜をツツカナに送るという「互の尊重」がなされ、対局後のインタビューでも両者ともに互への敬意が感じられました。このような人間とソフトの相互尊重の姿勢が塚田プロの指し方に感じられなかった。それが甚だ残念で仕方ありません。

将棋の内容やその後の色んな関係者の発言を読んで思うことは更にありますが、まず一番言いたいことを言わしてもらいました。「塚田先生の姿勢にはがっかりしました」。私はプロ棋士を呼ぶときは必ず「先生」という呼称を付けるよう心がけています。これは僕なりのプロへの礼儀と思っていますが、今後塚田先生には正直先生という呼称を付けるのもためらわれます。
(4/15 20:56追記 コメントでも頂きましたが「私はプロ棋士を呼ぶときは・・以降の文章は度が過ぎました。見られてお気を悪くされた方、本当にすみません。自省の意味も込めて原文は消さずそのまま残しておきます)